アート推考4「独学の勧め」
明けましておめでとうございます。
前回のこの連載で書いた通り世界はコロナ禍で大変ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
以前から思っていたことを書きますが、私の友人には、美術教育者も多くて、彼ら(彼女ら)を批判することにもなりかねませんが、それを気にしていたら何も書けないので、友人を失う危険性を感じながらもつづります。
有名アーティストの多くが、独学が多いのに驚きます。私は美術教育者ではないのでキチンと裏を取って調べたわけではありませんが、例えばゼザンヌは、最初、何処かの素描教室で基礎デッサンを教わり、それ以降はルーブルに入り浸って模写をして絵を勉強したらしい。ウォルト・ディズニーは「ルッツ先生のイラスト図版帖」で勉強したらしい。漫画家の浦沢直樹さんもアシスタントのバイトは1年もやってないらしい。建築家の安藤忠雄さんも独学。バスキアやキース・ヘリングもしかり。
「別に有名になるために絵を描いているわけではないよ」と仰ると思いますが、日本の美大(あるいは日本社会)は減点主義なので、おかしいところがあると修正されます。ここがおかしい、あそこがおかしいと修正していくと、皆さん同じようなものができあがってきます。真面目で素直な生徒ほど先生のアドバイスをよく聞きます。生徒はバカではないので、先生の嗜好や方向性を敏感にキャッチします。その先生の授業を受けているのだから、その先生の嗜好に合わせるのは当たり前なんですね。嫌なら俺の授業を受け(選択し)なければいいとなります。
結果、減点主義の先生からは、プラモデルを作っているような完成度は高いけど、似たような作品が並びます。「とても綺麗で上手ですね~!!」日本美術教育は技術(道具の使い方)を教える場で、個性は教えないんですね。個性は教えるものじゃなくて自分で見つけるものだからです。でも見つける時間を殆どの生徒は作らない(作れない)から、技術を覚えてハイ卒業となった後は、描くのを辞める人が殆どです。
鉛筆はこう塗りなさい。膠はこう使うといい。金槌はこう。日本美術の技術を継承する(絶やさない)ために岡倉天心が東京芸大を作って、縦割りの科別になり、技術は途絶えることなく継承されて、やれやれ一安心。
でもそこからはバゼリッツらは生まれないでしょう。旧東ドイツ出身の画家ゲオルグ・バゼリッツは、自分の絵を観た人が「上手い! 似ている似てない。ソックリ!」ばかり言う事に嫌気がさして逆さまにして飾りました。絵の縦横を逆にしたり、逆さまにしたりするのはモンドリアン以降、沢山いますが、バゼリッツは逆さまにした後に、絵に手を加えないのが笑えます(普通は修正したくなるのでしょう?)。だからバゼリッツの絵の全ては絵の具が下から上に垂れています。
絵の素晴らしさが「上手い下手」ではなくて、「生き生きといつも運動している」というならば、バゼリッツの絵を観た人が、自分の頭の中で絵を正体に戻し見直す行為が、絵を観ながら運動として永遠に続くわけです。結果、バゼリッツの絵はいつも運動しているんですね(=生き生きしている)!!
ここで日本の毒教師が問題です。もし生徒が絵を逆さまにして提出したら、先生は「なぜこれは上下が逆なんですか?」と尋ねて、生徒は「顔が似ている似てない(上手い下手)ばかり観られるのが嫌で、抽象的な色のリズムなどで観てほしいから逆さまにしました」と応えますが、僕がもしその時に先生なら「それは君の思いつきだね(笑)? 面白いけど、とても幼稚に感じるから、逆さにしてもいいけどそこを一歩目として、もう少し作品の出来映え(完成度)を考えましょう!」とアドバイスします。このアドバイスが曲者です。素直な生徒は「う~~んそうだな」て考えて、逆さまを辞めるか、逆にした絵に手を加えて、結果、個性のないものになっていくんですね。
安藤忠雄さんが有名になった家の中を通過するのに屋根がなくて、雨の日は傘が必要な「住吉の長屋」も、毒教師にかかれば笑われるのではないでしょうか?
僕が言いたいのは「独学の勧め」です。そういう勉強する時間をもっと自分で作りなさいと。「上手い下手」ばかりを評価基準にする仲間達とつるんでいては、いつまでたっても自分のアイデンティティーのあるものは作れません。消えていくばかりです。それでいいという方は、それでもいいのですが、問題点は何でしょう? 皆、同じという事は「つまらない。退屈。硬直している」という事です。それでもいいという方は、それでいいです。

大村タイシ
アーティスト。多摩美術大学卒業。『街の手帖 池上線』で表紙イラストを担当。