【ローカル】風に吹かれる 〜多摩川〜武蔵新田界隈を歩く〜
夕暮れの多摩川沿いを歩きたくなった。少しだけ池上線から離れてみようか。
蒲田から多摩川線に乗り2駅、「武蔵新田」の駅で降りた。この街には昭和の風情が残る店が多くあるといわれている。武蔵新田商店街を抜けて、さらに15分ほど歩くとくねった住宅街に出る。そこを抜けると多摩川の土手が現れる。
雲の切れ間から太陽の光が地上へと降り注ぐ。どこまでも広がる空、多摩川の水面は黄金色に輝いている。風が心地よく、美しい時間だ。
ボートが過ぎ去ったあとの水面は揺れ、光に染まった黄金色が崩れていく。ボートはどんどん遠ざかっていくのに、波は規則的に広がりながらいつまでも残っている。
足を止め、深く息を吸うと草だけでなく磯の匂いを感じる。河口までは9キロ。海はそう遠くない。風の気分次第で磯の匂いが運ばれてくるのだ。
海水と淡水の混ざる羽田沖は、プランクトンが豊富でアサリやシジミが多く捕れると商店街の居酒屋の大将が話してくれたことがあった。
「朝、ジョギングがてら羽田まで行きシジミを獲ってくるんだよ。本当はいけないことなんだけどね。吸い物にして客に出しちゃうんだよ」
居酒屋はいつだったか看板を下ろし、その話がウソか、ホントか、今となってはもう確かめようもない。
陽が沈む前に多摩川を離れ、また駅に向かう。一階が小さな工場になっている家が目に付く。戦後大きな工場や住工一体の町工場がこの街にはたくさんあったという。時代は変わり、多くの工場は廃業したが、いまでもこの辺りには小さな工場を多く見かける。昔は工場に勤める人たちが、商店街の店で飲み食いして賑わっていたそうだ。
商店街の中心に鎮座する新田神社にはお参りをする人が絶えない。鳥居の前で一礼をすることはこの街の人にとって日常のようだ。
時計は18時を回った。商店街が一番にぎわう時間だ。駅に向かう人、駅から帰る人、長い商店街を人々が行き交う。
魚屋、豆腐屋、銭湯、金魚屋。どれも趣のある建物ばかり。本当に昭和にタイムスリップしたようだ。
駅前の大衆居酒屋「白鶴」前で、「豆富司 みしまや」がおぼろ豆富の出張販売をしている。おぼろ豆富はプリンのような柔らかさで、口に含むと甘い大豆の香が広がる。
二代目店主・小川晃一さんは選び抜いた国産大豆を使い、豆乳の濃度やにがりの量、大豆の挽き具合をその日の天候や湿度に合わせ徹底して調整するという。駅前で金曜の夕方に出張販売をする時は街の中だけでなく遠くからもこの味を求めて人々が訪れる。
多摩川線が通り過ぎた後に紫色の雲が浮かんでいた。厚い雲に西日が重なる時、雲はこの色を見せる。線路の先に見えるのは隣の下丸子駅に着こうとするさっきの電車だ。駅と駅の間隔がこんなに近いのは池上線と同じだ。「歩いても行ける」感覚に私はほっとする。
多摩川を後にしてからどのくらい経っただろう。店先から食べ物のいい匂いがしてくる。辺りは暗くなり、店に明りが灯ると、夏の虫のように人々が吸い込まれていく。その光景を見ていたら、もう、どうにも呑まずにいられなくなる。これが武蔵新田という街の魔法なのかもしれない。

大宮康子
ライター。池上に生まれ育つ。ライフワークは街を歩いて見つけたもの、人、出来事を記録していくこと。
※本原稿は、2019年10月発売予定の『街の手帖』31号にて掲載予定です。