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音楽とローカル>音楽メディアの変遷と、音盤をコントロールする行為について①

都内を中心に活動するDJ・マイケルJフォクス(以下、MJF)さんの連載がはじまります。
2018年8月に新木場studio coastで開催されたcero主宰の「Traffic」というイベントで出会い、名前のインパクトもさることながら音楽ジャンルの垣根を越えた大らかな選曲に感銘を受け、さらに池上線沿線の大学に通っていたという偶然も重なって「音楽とローカル」というテーマで連載をお願いしました。
第1回目は「音楽メディアの変遷と、音盤をコントロールする行為について」。MJFのこれまでの音楽遍歴を辿っていきます。読み進めると懐かしい時代を思い出す音楽や場所が登場します。
MJFの音楽をまだ知らない方は、mixcloudにアップされた以下の「CITY OH BABY Extra Mix vol.01」を聴きながら読んでみてください(プレイヤーが表示されない場合はリロードしてください)。

音楽メディアの変遷と、音盤をコントロールする行為について①

 幼少期、物心ついたころには既に我が家にはレコードプレイヤーを備えたオーディオ機器一式があった。両親が保有していたLPはカーペンターズやビートルズなどの有名どころで特段マニアックな音楽ファンではなかったが、振り返れば情操教育として上質なポップスに触れられていたのではないか、と思う。
 プレイヤーやアンプのメーカーは思い出せないが、スピーカーは多摩市永山の団地には不釣り合いに大きく、センターキャップが黒い電球みたいに特徴的に突き出していた様、LPに針を落とす際の「ブチ」という電気が弾けるような鈍い音と音圧、昼間の一瞬の時間を隣人のストレスをギリギリ縫うように1~2曲だけ鳴らす大きな音、ビートルズの青盤収録「ゲット・バック」でこちらが恥ずかしくなるほど陽気に踊っていた母の姿は今でも鮮明に思い出される。
 また幼児向け雑誌の付録で手に入れた”ドラえもん”と”オバQ”の”ダブルネーム”ソノシートは自分がコントロールすることを許された初めての音源としてとても印象に残っている。

 小学校に上がる頃には既にCDも多く流通していたが、ウチでは専ら駅の近くにあったレンタルCD店「友&愛」でレンタルしたベストテン歌謡曲などをドライブ用に親がダビングしたものなど、カセットテープを中心に音楽に触れる機会が増える。
 親の友人同士で貸し借りされるカセットテープにはオフコース、チューリップ、山下達郎、竹内まりあ、久保田利伸なども。
 今思えばたまの家族旅行など長距離ドライブ中に60分テープが何度もリピートされ、既に興味が失せた楽曲群を何度も何度も聴かされる憂鬱さが、その後自分で楽曲の再生をコントロールする側に立つことへの欲求を産んだのかもしれない。3歳年上の姉がそうしていたように、そのうち自分でも借りたテープからテープへとダビングし、自分のお気に入りテープを作成するようになる。
 同級生の兄から借りたおニャン子クラブや国生さゆり、浅香唯などのアイドル楽曲が中心だった。振り返ればそれら楽曲やアイドルが好きだったというより、ラジカセを使って自分一人で編集~再生する行為が既に楽しかったのだと思う。
 高学年の頃にはクラスの男女数人のグループで遊ぶ機会も増え、ウチで遊んだ際にはダビングしたユーミン「DAWN PURPLE」を得意げに選曲した。「俺たちひょうきん族」のエンディングでかかるユーミンや山下達郎の歌声は、どこか透明感があり都会的で、魔法のようにオシャレな響きを漂わせていて、それを選曲する自分もまた”オシャレ”という算段だった(NONA REEVES・西寺郷太が80年代を象徴するムードを“ひょうきん族のエンディング感”と表した、まさにその空気感)。

 主題とは逸れるが「プリンスの東京ドーム公演がテレビでやるらしい」(改めて調べてみたところ「Nude Tour In Japan 1990」であった)とどこかで聞きつけた両親が晩飯の時間に家族で観ようと提案、ステージ上で性行為を思わせる腰使いを執拗に続けるプリンスに対し、当時テレビにキスシーンやラブシーンが映ろうものなら即刻チャンネルを変えていた両親が自らの提案で呼び掛けたライブ鑑賞ゆえチャンネルが変えられず、CMが流れるまで家族で地獄のような時間を過ごしたことがあった。
 プリンスには家族の団らんに何てことをしてくれたんだという敵意を数年に渡り抱きつつも、”流行っているからといって何にでも無暗に首を突っ込むべきではない”というその後の自分の行動指針にもなる教訓を得た出来事だった。

 中学生にもなると貰えるお小遣いも増え、親が管理していたお年玉貯金を元に当時家族でハマっていたB’zや、そのファンクラブ会報で知ったGuns N’ RosesやJimi Hendrix、Cream、Bad Company、Lenny Kravitz、DEEP PURPLEなど時系列関係ナシにざっくりと洋楽ロックのCDを買うように(同時期、既に勃興していたグランジブームやHIP HOPなどはまだノータッチだった)。
 この頃の「洋楽」というワードは、普段馬鹿話で一緒に盛り上がっている友人らの中で、実は自分は違うステータスを有しているという自己肯定感を満たすための機能をまだまだ持っていたように思う(埼玉県鶴ヶ島市だけかもしれないが)。実際「洋楽」の話題を共有する友人はクラスに一人か二人で、先輩や同級生は既に解散したBOØWYやブルーハーツをよく聴いていた。X JAPANもファンが多く、元気が出るテレビ出演時のイロモノ的印象からスラッシュメタルのバンドとして認知し自分も好きだった。
 中二になると部活動とは別の放送委員会に所属し、週1~2回、給食のわずか20分ほどの時間に3曲ほどをダビングしたテープを放送室から流していた。特段選曲について言及された記憶はないが、選曲〜ダビング〜放送という一連の作業を一人で行うことは、誰にも邪魔されない聖域を手に入れたような、窮屈な学生生活を自由な心持ちにしてくれる貴重な時間だった。

 高校に入る頃にはいわゆる”渋谷系”と括られるアーティストにハマることに。あの頃の外資系レコード店はTKプロデュースやミスチルなどのメジャーアーティストのプロモーション情報と並列に”渋谷系”などを中心とした、ややマイナー~インディーアーティストの楽曲も扱われていたことや、音楽情報誌の存在がミドル埼玉在住で情報源に乏しい高校生にも様々な音楽に触れる機会を作ってくれていた。
 バイトもはじめ月一回のペースで裏原宿のお店に服を買いに行くルーチンに、フジテレビの深夜に放送していた「BEAT UK」でチェックした洋楽シングルを探しにタワレコやHMVに行く流れが加わる。Oasis vs Blurのいわゆる”ブリットポップ抗争”を主軸に周辺のアーティストをチェックしていた(”ブリットポップ抗争”と言いつつ実情はOasisノエル・ギャラガーがblurデーモン・アルバーンを一方的にディスる内容が主で、当時はそれをプロレス的に楽しんでいたのだが、ある時ノエルが言った「デーモンはAIDSになって死んでしまえばいい」という発言に「それは流石に言い過ぎだろう」と思っていたところ、案の定各方面からお叱りを受けたらしく「あれは言い過ぎた」と即発言を撤回していた)。同時にそこではKIRINJIや松田岳二と堀江博久のNEIL & IRAIZA、Polaris大谷友介のLaB LIFeなどのマキシシングルCDを購入した事が思い出される。
 そういった外資系レコード屋で買い物をする流れから渋谷系のミュージシャンがリリースする限定盤やグッズも多く収集することに。
 HMV渋谷店の入り口に大きく飾られた限定アナログ盤には、自分に扱えるものではないからこそ憧れをもち、強く心を惹かれた思い出がある。ピチカートファイブやコーネリアスの限定アナログ盤を購入した流れで、中古のベルトドライブ式レコードプレイヤーも購入。
 この頃池袋P’パルコの2周年企画にてピチカートファイブ小西康陽が店内でDJをする(”おいわいDJ”という名目だったと記憶)ということで、学校をサボって見にいったのがDJを生で見た初めての体験だった。その頃のDJのイメージとしてラッパーの後ろでスクラッチをしている印象が色濃く脳裏に焼き付いていたため、1曲ずつ選盤・選曲していく小西さんのスタイルに「こういうDJもあるのか」と少し拍子抜けした思いと、「大きい音で音楽がかかっていて本人も楽しそうで、なんだかいいな」という印象を持ったのだった。地元の百貨店で定期的に行われていたレコード市や、80年代くらいからあるハードロックとディスコばかりの古いレコード屋などで70’sソウルなどの中古レコードを購入し始める。
 この頃、地元の友人と連れだって行ったJamiroquaiの武道館公演が初めてのライブ体験だった。同級生とは各々が選曲したテープの交換も頻繁に行なっていた。トータルコンセプトのアルバムのように、曲の並び方や終盤の展開によってリスナーである友人がどのような気分を覚えるのか、そんなことをイメージしながら選曲をしていたし、今でもそんなイメージで選曲を行なっていることに気が付かされる。

 またこの頃にはレコードで音楽を聴くこと、また針を落とすという物理的な作業により興味がでてきていた。テレビや雑誌で見るDJは音盤に直接触れており、レコードを触るという行為そのものがDJという存在に近づけるような、そんな心持ちだったのだと思う。
 実際DJ用ミキサーの操作方法など、DJがどのような作業をしているのか理解もイメージも全くできていなかったため、自分が実際にDJをやってみる事についても同様にイメージできていなかったのだが、”レコードに触れる”、”針を落とす”、”自分が選んだ音楽がかかる”という作業は非日常を感じさせるスペシャルな行為であり、ただただ楽しかった。
 1990年代の終わり頃のことだった。
(つづく)



マイケルJフォクス
1979年生まれ。”Back to”の後DJを開始。オールラウンドミックスを基調としつつ現在進行形のベースミュージックやJ-POPなども盛り込んだ独自のDJスタイルで、都内を中心に場所やジャンルを選ばないボーダレスな活動を継続中。

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