コトノハ|編集と出版

コトノハメディア135 コトノハがわかる

街の寓話 テイクアウト、或いは

小説家・小林大輝さんの連載「街の寓話」がスタートします。
街でおこっているコト、街にいるヒトやモノなどをモチーフに寓話にしていきます。
おうちでゆっくり読んでください。

テイクアウト、或いは

take away

意味:1. …を持っていく・奪う
   2. (〜から)…を取り除く (~from)
   3. テイクアウト (=takeout)
 

 私は都会の小さな部屋を借りて一人で暮らしている。同居人を失って久しい。左手の薬指に嵌めた指輪は随分と前に外してしまった。

 バルコニーに出て、窓の外の景色を眺めた。日が落ち始めている。目の前の小さな公園には、ハナミズキが見事に咲き誇っている。いつもなら下まで降りていき、少し外を散歩してから、写真の一枚でも撮っているところだが、公園の中は思いの外、子供たちで溢れかえっている。他に行き場がないのだろう。

 窓を閉めようとしたとき、向こうのアパートの廊下で立ち尽くしている老人の姿が目に映った。散歩しているときに、その姿を何度か目にした覚えがある。老人は公園のハナミズキと子供たちをじっと見つめていた。記憶の中の姿より、なんだか元気がないように見える。きっと、私と同じことを考えているのだろう。たったそれだけの光景に、私はなんだか胸が締め付けられてしまった。感傷的になっているかもしれない。

 二つ離れた通りを跨ぐ踏切の上、電車の駆け抜ける音が、部屋の中まで響いてくる。それに耳を澄ませるだけで、少し心が和らぐ。いつも聴いている好きな音楽もなぜか耳に入ってこないというのに、普段は気にならないような日常の些細な音が、今の私にとっては慰めになってしまっている。

 窓を閉め、フローリングに座り、壁にもたれかかった。後で体が痛くなるとわかっているのに、こうして時々、悪い姿勢を取りたくなってしまう。視線の先では、持て余された時間を費やし、いつもより掃除が捗ってしまったせいで、本来の美しさを取り戻した台所が銀色に輝いている。先程、洗い物を終えたばかりで、ほんの少し水の滴る音が響いてくる。滴が落ちる度、耳を澄ませて、息を吐く。すると、少し呼吸が楽になる。

 小さな本棚が静かに私へ寄り添っている。家の中にある本は、もうみんな読み終わってしまった。ネットショップで新しい本を買いたいが、配送のことを思うと、いつものようにワンクリックで注文するのはどうしても憚られる。せめて周囲の慣れ親しんだ店にお金を落とそうと思っても、商店街の色彩は灰色のシャッターですっかり色褪せている。行く場所がない。この街へ越してきたばかりの頃を思い出す。 

 ネットショップの会員特典で無料視聴できる映画を、幾つかピックアップして観てみたが、内容がひとつも頭へ入らぬうちに、みんな感動的なフィナーレを迎えてしまった。オーケストラの鳴り響く荘厳な音楽によって、感動的だということだけはよく理解できる。勿論、映画がわるいのではない、私の心に余裕がないのだろう。

 手元のスマートフォンを操作する。みんなのつぶやきが気になってしまい、五分に一回、青い背景を飛ぶ白い鳥のアイコンを押している。つぶやきというよりは、ほとんど悲鳴や怒号を帯びた声が飛び交っている。画面の向こうで叫ぶ人々の方がよっぽど苦しみと戦っているのに、私は何もしないままで、すっかり疲れ果ててしまっている。

 ──何もしていない訳ではない、部屋の中で耐え忍ぶことには意味がある。自分から悲観的になるのはやめよう。余計なことを考えて、頭を一杯にする前に、現状の問題に目を向けようではないか──

 私は自分にそう言い聞かせ、部屋の中心に今朝から鎮座しているものを見つめた。
 目の前にあるのは、とても大きな蛤だった。
 フローリングの上には、人の頭くらいの大きさの蛤が置かれており、貝の隙間からしきりに薄い霧のようなものを吐き出している。私はこの蛤に一切の覚えがない。こんな図体をして、水もないのに何処から入り込んだのだろうか。この霧は有毒なものではないだろうか。疑問は尽きないが、今の私はそれらを考察する程の気力を、もう持ち合わせていなかった。

「テイクアウトはいかがか」

 部屋の中心で深い声が響いた。他に誰もいないから、これは蛤の声なのだと思う。もしかしたらこの家に地縛霊がいる可能性もなくはないが、居住二年目にして、そんな新事実は発覚して欲しくない。私はぼうっとしたまま、蛤を眺めた。

「テイクアウトはいかがか」

 蛤は五分に一回くらい、ぼそっと一言だけ呟く。私はどうにも答える気にならず、その度にみんなのつぶやきを眺めて、見ないふりを続けていたが、この数時間で、家事も、暇潰しも、在宅で出来る作業は、何もかも終わってしまった。

「テイクアウトって?」

 私はまったく気が乗らないまま、仕方なしに口を開いた。蛤は答えた。

「そもそもテイクアウトとは、和製英語らしい」

 蛤は煙草の煙を吐き出すように、ふぅっと霧を大きく吹いた。

「英国ではtake awayと表現されるそうだ」
「そうなんだ」
「ああ」

 話は一度、そこで途切れ、私は質問と答えがひどくズレていると感じた。決して、単語の説明を求めた訳ではない、テイクアウトできる内容を尋ねたのだ。いや、相手は所詮、蛤なのだから、仕方がないかもしれない。やめよう、まともに考えると疲れてしまう。ただでさえ、この数週間で消耗しているのだ。私は思考を緩め、適当な返事をすることにした。

「英語の発音がすごくいいね」
「そうだろうか」

 蛤は、ぽぽぽ、と幾つか小さな霧を吐き出し始めた。喜んでいるらしい。

「すごくいいよ、きっと二枚貝だからだね」
「私の形は唇と似ているからな」
「うん、巻貝じゃ、こうはいかないだろうね」
「うむ、そうだな」

 巻貝と二枚貝の発音にそこまでの差があるのか、私は一欠片も知らない。思いつくことを適当に並べただけだったが、蛤はまたふっと霧を吐いて、少し沈黙した後、誇らしげに言った。

take awayはいかがか」

 あまりに素直な態度で称賛を受け取った蛤に、私は少し笑った。胸の中で、沈んだ気持ちが僅かに浮かび上がってくる気配を感じた。

「生憎だけど、私はtake awayするのではなく、される側の人間なのよ」

 思考だけでなく、心まで緩んだのか、思いもよらない言葉が口を突いて出た。私は膝を曲げて、指で髪を梳きながら、友人と話すときのようにリラックスしていた。

「そのtake awayとは?」

 蛤が尋ねた。自分は答えないのに、人には問うのか、こいつは。どこか腑に落ちなかったが、私は二枚貝にもわかるよう、丁寧に答えてやった。

「お金よ。お金がtake awayされていくの。預金の残高と比例して、じりじり精神が擦り減っていく感覚を久しぶりに味わっているところ。今回のことで、これまでの仕事がすっかりなくなってしまったわ」
「お前は仕事をtake awayされたのだな」
「そうよ」
「他にもあるのではないか」
「何が?」
take awayされたものだ」
「なんだろう、たくさんありすぎてわからないわ」

 心からの言葉だった。何が私の下を去り、それを誰が持っていったのか。果たして、この先には何が残るのか。私は少しの間、考えたが、どちらの問いも虚しく消えた。過去も未来も、上手く心に思い描くことができない。考えを巡らせようとしても、不安ばかりが先立つ。私は現状を確かめるように、もう一度呟いた。

「なにもわからないわ」
「そうだろうな」

 蛤は溜め息のように濃い霧を吐いた。同情してくれているらしい。私はまた少し笑った。

「私は貝になりたい」
「本当にそう思うか」
「言ってみたかっただけよ」

 言ってみた、だけで済むつもりだったのに、私は後から言葉が段々と真実味を帯びてくるのを感じた。

「でも、次に生まれるときは、貝でもいいかもね」

 私は本当にそんな気がしてきて、膝を抱えて丸くなり、その中に顔を埋めた。蛤がまた尋ねた。

「苦しいか」
「ええ。でも、貝もそれなりに大変なんでしょう?」
「まあな」
「みんな同じだわ」
「私にできることがひとつある」
「なに?」
take awayだ」
「それ、好きね」
「お前がtake awayされたものを、私からtake awayすることで、お前の苦しみをtake awayするのだ」
「さっぱり意味がわからないわ」
「奪われたもの、持っていく、取り除く、のだ」

 単語を覚えたばかりで不慣れな異邦人のように、蛤は言葉を区切った。なんだか可笑しかった。

「日本語って難しいわよね」
「本当にそう思うか」
「言ってみたかっただけよ」

 私はいつの間にか顔を上げて、微笑んでいた。蛤が呟いた。

take awayはいかがか」

 蛤はまた霧を吐き出した。気づけば、部屋中が真白く、霧が充満しつつあった。私は長らく忘れていた気軽な会話を交わして、気持ちが落ち着いたのか、少し眠気を感じ始めていた。

「そうね、そこまで言うなら、ひとつお願いしようかしら」

 私は頷いた。それが何かは未だにさっぱり分からないが、この素直な蛤が何度も言うならば、一度やらせてあげたい気がしたのだ。

「承知した」

 蛤が一言、深い声で呟くと、部屋中の霧がじわじわと中心へ向けて流れ始めた。どこか潮の満ち引きを見ているようだった。霧は蛤の頭上に集まり、色濃くなっていく。私は眠気も手伝い、霧が徐々に形を得て、何かが浮かび上がってくるように感じた。蛤が私に尋ねた。

「何が見える」

 霧は、手すりつきのリクライニング式ベッドを模っていた。眺め続けていると、さらに霧は凝縮されていき、やがて明確な像を結んだ。ベッドの上で老いた女性が身体を起こしたまま、どこか遠くを見つめている姿が映し出された。彼女はその場を動きはしなかったが、幾度も瞬きをしていた。

 私はこの女性のことをよく知っていた。彼女はきっと、窓の外のハナミズキを見つめているのだ。彼女の病室は、病院の入り口前に植えられた樹々が見えて、とても景色の良い部屋だから。せめて、その美しい花たちがあなたの心の慰めになっていればいい、と毎日思う。あなたと会う時間が奪われて、もう数週間になるわ。自転車を飛ばせば三十分と掛からない場所にいるのに、ほんと嘘みたい。あのね、私、手紙を書いたの。ちゃんと病室まで届いたかしら。涙でインクが滲んで読めなくなってしまうから、何枚も書き直しちゃった。やっぱり、私はあなたの顔を見なければ、ねえ──

「お母さん」

 私はそう呟いて、蛤の問いに答えた。今もずっと一人で過ごしているであろう、霧に映る病室の母の姿を見て、長い間、胸に支えていた何かが取り除かれたような気がした。

「寂しい思いをさせてごめんね」

 嗚咽が胸の奥から込み上げ、私は堰を切ったように、声を上げて泣いた。胸が上下し、肺が躍動するのを感じた。ここ数週間ずっと、私の体が深呼吸を忘れていたことに、そのとき初めて気がついた。

 私は嗚咽を溢す度、蛤が吐き出す霧を大きく吸い込んだ。霧に水分が含まれている為か、ひどく息がし易かった。私は嗚咽と、蛤の霧を交換した。泣く度に、部屋中の霧が体の内部へ取り込まれていった。蛤は沈黙して静かに私の悲鳴を聴いていた。やがて、ベッドの骨組みや、窓の外の景色を見つめる母の形をした霧も、呼吸と共に少しずつ、私の中に含まれていった。

 霧が自分の体中に満ちて、心の中に母の像が結ばれていくのを感じた。これで何かが解決したわけではない。未だ先は見えない。それでも母の姿を一目見ただけで、私は安堵に包まれた。声の限り泣いて、部屋中の霧を全て吸い込んだとき、私はすっかり疲れ果て、横になり、ゆっくりと眠りの中に誘われていった。それはもう随分と長い間、忘れてしまっていた、心地よい疲れの先にある幸せな眠りだった。

take awayはいかがか」

 蛤の深い声が響いた。眠りに落ちる最後の瞬間、私はちらと部屋の中心を見た。フローリングの床にはもう何も残されていなかった。きっとまた、蛤は誰かの部屋へ向かったのだろう。人が奪われたものを再び与え、その苦しみを取り除く為に。
 私は部屋の中で一人呟き、瞼を閉じて、眠ることにした。

take awayはいかがか」



小林大輝
小説家。2018年、小説『Q&A』で《ピクシブ文芸大賞》を受賞し幻冬舎からデビュー。



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