コトノハメディア135 コトノハがわかる

アート推考3 「コロナ討論と画面の汚れ」

 随分、間が空きました。ここに関しては、自分の気持ちになるべく嘘をつきたくなかったので、書く必然を感じない時には書かなかった/書けなかったのです。時間があれば言葉で語るより絵で語った(描いた)方がいいと思ったし。

 昨日から今日(5/3)のTV番組をたまたま観ていて面白かったのは、Eテレ「義男さんと憲法誕生」「バリバラ」と、テレ朝の「TVタックル」でした。

 TVタックルでは、コロナ対策の国々の政策の違いを放映していて、殆どの国が国境断絶の鎖国状態=コロナ封じ込めを行っているのに対して、スウェーデンは、国民集団感染をあえてして多くの抗体を持つ者を作り(集団免疫)、国を安定させるという方針でした。なので日本のコロナ死者数492人(5/3現在)に対して、スウェーデンは2462人(4/30現在)で、日本の約5倍の人が亡くなっています。

 これは生き残る人だけ生き残ればいいという自然淘汰みたいな考え方ですが(イギリスも最初はこの方針だった)、TVタックル出演の木村もりよさんが言うには、(感染者数の波の)第一波をなるべく大きくしないと、第二波が来たときに、もっと医療現場が混乱して国民生活が滅茶苦茶になると警告していて、暗にスウェーデンの政策を支持するような主張をしていました(に対して東国原さんが反対の立場)。

 僕は一理あると思いましたが、その後少しショックだったのは、Twitter(僕はTwitterはやってない)を覗くと、木村もりよさんが叩かれていて、その内容が木村もりよさんの意見に対してではなくて、外見に関してや、やれ喋り方が高圧的だの品がないなどとという、殆どがTV映りの印象に関してでした。

 TVというのは、話された内容より、髪型や顔や服装や仕草の印象が記憶に残るものだと竹村健一さんがかつて指摘してましたが(ケネディもそれで大統領になったし)、まさにその通りの現象がTwitterで起きていて恐ろしいな…と感じました。
 
 
 アートとの関係ですが、木村もりよさんが言った「第一波をなるべく大きくしないと第二波は小さくならない」(→収束に向かわなくて、より長引き、国の経済や生活の混乱も長引く結果、滅茶苦茶な状態になる)ことについて考えてみました。

 絵に完成(=コロナ収束)があるとして、最初は下地(=感染混乱第一波)から始まりますが、その下地はできうる限り大雑把な方がいい。僕が18歳頃の事ですが、一つ歳上の先輩は、鉛筆デッサンの際、綺麗な白い紙を前にして、汚い靴で踏んづけたりして足跡をつけ、ある程度、紙を汚してから絵を描き始めましたが、これは何か解ります。

 紙の混乱(ウイルス感染)は、最初はなるだけ大きい方が後々、収束(完成=均整のとれた美)に向かって落ち着いて楽に行けるの(かも)です。
 汚れた靴の足跡が残れば、それは絵の味になります。
  
 しかし、イラストレーターの絵を観る人は、多くが絵の素人です。
 画面についた靴の足跡に気づけば、何だこの汚れは?と気分を悪くされるかもしれません。だからイラストレーターは、文句を言われないように靴で画面を踏んづけたりはしません。

 しかし、踏んづけるのを止めて、最初(感染第一波)が小さい(おとなしい)作業になった場合、第二波がより大きくなると画面が混乱して収拾がつかないようになる。のは木村もりよさんのコロナ指摘とも被るように感じます。最初はなるべく大きく下地(感染・混乱)を作って徐々に小さくなって(収束して)行く方がいいのかと。
 下地は混沌とした宇宙(=コロナ感染の世界)をあらわすのです。完成は美がコントロールされた理性の世界(収束)です。

 僕が、今日、木村もりよさんの一言で連想したのは、絵の「収束(完成)」を導くには、最初からきれいなものをきれいなものとして保護することではなく、最初は少し荒っぽく見えることも必要なのではないか、ということです。それは、多分、絵に限ったことでもないのだろうけど。

大村タイシ

アーティスト。多摩美術大学卒業。『街の手帖 池上線』で表紙イラストを担当。

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