コトノハ|編集と出版

コトノハメディア135 コトノハがわかる

音楽とローカル>音楽メディアの変遷と、音盤をコントロールする行為について②

 コロナ禍の影響により私のDJ業も4月から予定していたすべてのパーティーが中止、ようやく先日渋谷のクラブ“OTO”で毎月開催してきたイベント「NIght Rhythm」を配信にて開催できた(観て頂いた方、ありがとうございました!)。
 昨年家族の事情でレギュラーイベントを半年間お休みするまでは10年以上にわたり週1〜2・月4〜6回程度の頻度でクラブからライブハウス、バーや居酒屋の一角まで、北関東での200〜500人規模の合コンパーティーや結婚パーティーの営業など、様々な場所やシチュエーションでDJを続けてきた。営業的DJ以外ではここ数年こそまともなギャラを貰ってDJをする機会も増えたが、20代の頃には企画に関わったイベントで大赤字を出すことも多々あったりと、経済的に厳しい状況が続いていた時期もあったが親の仇の如き執念でDJをする機会だけは何とか確保してきたことは、ひとえに前回も触れた「そもそもDJのやり方がわからなかった」ことが、大きな要因と言える。もう少し正確に言えば、「自分のやりたいDJがどんなものかわからない」という状態のままひたすらに続けてきたのだと、いま振り返りながら改めて思うのである。

地元のレコード屋で覚えた中古レコードの魅力


《写真:当時DACAPOで購入したレコード。おわかりいただけるだろうか》

 1997年頃、高校時代から徐々に購入していたレコードに、よりハマっていくきっかけは川越にあったレコード屋「DACAPO」(2009年に閉店)の存在が大きい。川越の高校に通っていた自分は下校時など川越駅周辺で友人と遊ぶ機会が増え、友人から「DACAPO」を紹介された。当時はCDを中心とした品揃えと僅かながらに新譜でリリースされたレコード(Pizzicato Five『FREE SOUL 2001』や細野晴臣とコシミハルのユニット『Swing Slow』などを買った記憶)を扱っていたが、店も小さく、外資系レコード屋と比較して決して在庫が豊富とは言えないこの店を重宝していたのは、単純にポイントカードの還元率がどこよりもお得だったからだ。バイトをはじめたとは言え、たかだか時給630円、インターネットのない時代、少ない小遣いで高校生の膨れ上がった好奇心を満たすだけの音源を効率よく手に入れる為に重要な店だったのだ。いわゆる“渋谷系”の新譜・初回限定盤を確実に買い逃さないよう、足繁く通い予約情報をチェックしては購入を繰り返す日々であった。

 そんな「DACAPO」が中古レコードを扱いはじめたのは自分が高校を卒業し、なんとなくの浪人生活を経てなんとなく大学に入学した頃だった。
 既に手元にあったスティービー・ワンダー、マービン・ゲイなどを中心としたMOTOWN諸作、JBやスライ&ザ・ファミリーストーン、FUNKADELIC、P-FUNK初期あたりまでのファンクミュージックなどの割とメジャーなLPや新譜CDを扱う大手店舗だけでは有り余る音楽欲を満たしづらくなっていたところに、カーティス・メイフィールドやリロイ・ハトソンなどのニューソウル期の諸作や70年代を中心としたソウル、ラテン、ジャズなどを擁した“レアグルーヴ”のレコード、コンピCD「FREE SOUL」シリーズで紹介されていた数々のレコードは痒いところに手が届く以上にガッツリと局部を愛撫されるようなラインナップであり、その後レコード屋でアドレナリン分泌と共に幾度となく繰り返す「あのレコードがあった!」という体験、大量流通された商品のように“どこにでも置いてあるもの”ではない、物質・音像としてのレコードの存在や深みをより強く意識し愛着を深めるきっかけとなった。
 また店主のトシさんは自分がお勧めするレコードを中心に、時に冗談めかしながら時に危うさを覚えるほどの熱量でいろいろな音楽の知識を伝えてくれた。と思えば、一般的に評価が高かったり、レアなレコードでも「これにお金使うことないよ」とシニカルに一蹴することもあり、スノッブというより“ひねくれ者”と言える独特のセンスは自分の血肉として息づいている。


レコードとDJ、宇田川町に存在した数々のレコード店

 一方大学生活においては、入学直後の高揚感や新歓コンパの荒波、男女のイザコザも一通り落ち着き「あいつ最近学校こないけど、死んだんじゃね?」という自分の噂が学部内で流れていることを耳にした頃、DJをやっている(正確には家にターンテーブルとDJミキサーを保有している)Kくんと知り合い、DJミキサーの扱い方や渋谷・宇田川町を中心に都内のレコード屋さんを教えてもらったりとDJのイロハについて手ほどきを受けていた。出会った頃のKくんは己のDJスタイルに「BPMでのテンポを揃えたミックスや、スクラッチは一切しない」という確固たる信念を持っており、そのコンセプチュアルさと哲学に自分も大いに感化されたのだが、1年くらいするとハウスのレコードを、BPMを揃え丁寧にかけていた。以前から影響を受けていた藤原ヒロシとそのレーベル、Major Force音源に目覚めたようだった。貸してくれた須永辰緒のミックステープ『Organ b. SUITE』や、彼のミックステープはDJとして選曲・構成する上での一つの指標となった。とてもお世話になった友人だ(数年後行き違いから疎遠になってしまい、借りていた数枚のCDを気まずさゆえ返せなかった事を今でも申し訳なく思う。ぴえん)。

 渋谷のレコード屋「Soul View Record」「Perfect Circle」「Mr.Bongo」「バナナレコード」、新譜〜再発モノはウルトラ各店舗や「ZEST」などはKくんに教えてもらった。それらの店を足掛かりとしてレコードマップなどを頼りに様々なレコード屋を訪ねた。移転後、即閉店のタイミングに遭遇した「Muteki Record」、地元の先輩から紹介してもらい緊張しながら訪ねた「Nothin’ But Records」。MUROのお店「SAVAGE」にはいつもお母様がいらしたこと、その横の「NY CITY RECORD」では行く度に乱雑に積まれたレコードからほぼ当てずっぽうで12inchレコードを購入、そこから幾多の音楽レーベルを知っていったこと、「あの店はミュージシャンのXXさんが、この店はDJの○○さんが働いて〜」という業界こぼれ話などなど、ひとつひとつのワードを反芻するたび、当時の青い思いが込み上げてくる。


90年代末期~2000年代前半のメディア変遷

 そんなDJとレコード、クラブというものの輪郭をぼんやり捕らえはじめた無垢な青年は、同時に大学生の通過儀礼・マルイの赤いカードにより魔法のように現金を手にする術を覚え、その後29歳まで過払金を払い続ける呪いに犯されるのでもあった。マルチ商法とリボ払いの恐ろしさについては義務教育でしっかりと教えておくべきだと強く思う(月1回「DACAPO」の中古レコード入荷日(正確には値付け中の段階で)に連絡を貰い、毎度のようにマルイでキャッシングをしてから店に通っていた自分も大概だったが、地元で企画したDJイベントで知り合った当時大学生のHくんから、同じマルイにてスーパーファミコンを買い、それを中古ゲーム店・GEOに売り現金を手に入れてから「DACAPO」に通っていたという話を数年後きかされた。世の中、上には上がいるが、下は下でとんでもないヤツが存在することを知る出来事であった)。

 1999年当時は今となっては幻のソフト・MDの普及がSONYの主導により継続して行われていた頃でもあった。カセットテープの最長録音時間が180分に対し、80分ディスク「MDW-80H」を用い4倍モードで320分まで録音できたMD・ミニディスクは、TSUTAYAや友人から借りたCDをカセットテープにダビングしコレクションしていた多くの音楽ファンにとって“21世紀的変革”を意識させたのだが、PCで手軽になったデータ管理とインターネット時代の到来によりあっという間にお役御免となったことを同世代から上の読者はよくご存知だろう。マライア・キャリーもビリー・ジョエルも矢野顕子もCHARAも、我々以外にも錚々たる面々が「ミニディスクを信じて」いたのに。ぴえんである。





《写真;TSUTAYAや友人から借りたCDをダビングしたMD。
カセットテープからMDへ本気で移行しようとしていた意気込みがうかがえる》


 個人的にはこうした音楽メディアの変遷とは完全に逆方向に、お金の使い方もマインドも舵を切っていくことになるのだが、CISCOやマンハッタンなどのクラブ系レコード店を中心に、ヒップホップやハウス・テクノやドラムンベース等々、壁一面新譜レコードが大量に並び、DJ用のレコードが週ごとに何十タイトルとリリースされている、そんな世界が存在していることを知ったのもこの頃だった。体感としてピークは超えたと感じているが、2010年代後半から現在まで世界的にアナログレコードの売り上げは伸び続け、それは一種のバブル期にあると考えている。また当時は俯瞰して捉えられていなかったが1998年を境に日本のCD販売数は下降線を辿っていくわけだが、90年代末から2000年代前半頃までのアナログレコード市場も、特に宇田川町に多数存在していた新譜・旧譜レコード屋(一帯を称して「レコ村」なんて言葉も)が表すようにバブルであったと考えている。当時のメジャー音楽業界はソフト=モノを売る商売がまだまだ続いていく、楽観的な感覚はどこかにあったのではないか。PCにコピーできないCD(CCCD)を販売したり、アーティストやファンにその意思があろうと原盤権を保有する企業がサブスクリプション解禁をいつまでも渋っていたり、CDをより多く買わせる為の過剰なファンサービスが当たり前となるなど、既存のビジネス構造を守る為の動きが“ねじれ現象”を生み、世界に類を見ない閉鎖的な構造となってしまった現在の日本の音楽産業について、当時誰が想像できただろう。これちょっと悪意のある書き方かしら。

 ランサーズの執筆代行でも2分で書けそうな浅い分析でお茶を濁してしまったが、大学2年の頃には学校の友人や前述のトシさん(!)を誘い初めてのDJイベントを企画した。翌年には遂に意を決し、ターンテーブルPioneer SL-1200 MK2を2台とDJミキサーBEHRINGER DX100のDJセットを、「一生のお願い」を発動させ祖母に資金を無心し購入するわけだが、人前での初DJ前までトシさんから貰った片チャンネル音の出ない・壊れたDJミキサーAudio-technica AT-MX33とピチカートファイブモデルのポータブルプレイヤー、ベルトドライブ式ターンテーブル(メーカー失念)を駆使してDJの練習をしていた。DJミキサーの肝であるクロスフェーダーが使えないまま、片方ずつのプレイヤーで音を出しては止め、出しては止めを繰り返す、BPMを揃えて曲と曲をミックスする次元まで数光年は離れた位置から、想像力を精一杯膨らませた“イメトレ”を軸とするDJ作業を開始した経験が「そもそもDJのやり方がわからなかった」自分を一般的・スタンダードなDJスタイルからより遠ざけることとなったのではないか、と今更ながら気がつくのであった。

21世紀まで残り1年のことだった。



マイケルJフォクス
1979年生まれ。”Back to”の後DJを開始。オールラウンドミックスを基調としつつ現在進行形のベースミュージックやJ-POPなども盛り込んだ独自のDJスタイルで、都内を中心に場所やジャンルを選ばないボーダレスな活動を継続中。

《リンク:音楽メディアの変遷と、音盤をコントロールする行為について①》

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