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超難解映画TENET解説2〜物理法則編〜

writer : 小谷太郎

クリストファー・ノーラン監督の最新映画『TENET』を見たけれど、目まぐるしい展開にほとんど理解できないという悲しい思いをした編集部が、【物理学者が物申す】というコーナーを新たに設け、物理学者・小谷太郎さんに2回にわたって解説をしていただくことにしました。今回はその2回目です。ネタバレを多分に含んでおりますので観てから読むことをおすすめします。

お待たせしました、TENET解説の2回目です。前回から間があいてしまったことをお詫びします。試験の採点が長引きました。オンライン授業の一環として、オンラインで試験を行なったところ、学生が答案の共有をしているのを検出するという余計な作業が発生してしまいました。

今ではTENETがストリーミング配信やディスクで視聴できるので、この難解映画を前から後ろから止めたり動かしたりしてみて研究しておられるかたもいらっしゃるかもしれません。

そのようなTENET研究家のかたも、そこまでではないかたも、ここにあの世界の物理事情を解説いたしましたので、よろしかったらTENET探索のガイドとしてお役立てください。

ただしネタバレを多量に含みますので、未見の方は御注意ください。

●最初に訂正です

前回の解説で、

「(ニールは)現在の主人公を助けるために未来から逆行してきたのです」

と述べましたが、これは私の誤解でした。

ニール自身の説明によると、あの結末の後、主人公は逆行し、何年も時間をさかのぼって、TENETを組織し、ニールをリクルートするようです。

●逆行弾で順行物体や順行人間を撃つとどうなる?

TENETに最初に登場する逆行物体は、冒頭のオペラ劇場の戦いで謎の味方(ニール)が用いた逆行弾丸です。床の弾痕から突然弾丸が飛び出して、敵(ウクライナSWAT)を倒し、ニールの持つ銃に吸い込まれます。逆行武器が順行人間を傷つける例です。

(大変不思議なシーンなのですが、このオペラ劇場戦は謎めいた登場人物が大挙して現れて、意図のわからない行動を説明なしに繰り広げるので、観客はこの不思議を落ち着いて考察していられません。)

逆行物体は、動画を逆に再生したかのような奇妙な動きを見せます。弾痕に埋まる逆行弾は轟音とともに薬莢(やっきょう)に戻り、テーブルの上の逆行薬莢は指を追って転がり、逆行金塊はセイターの手の中に飛び上がります。

宙を飛んで薬莢に戻る逆行弾丸は、途中に順行物体や順行人間があれば、それを破壊し、傷つけます。例えばタリンの回転ドアのある倉庫で、順行キャットは逆行セイターに逆行銃で撃たれて重傷を負います。


図1:回転ドア倉庫で、順行キャットは逆行セイターに逆行銃で撃たれて重傷を負います。

こうした描写から、

1. 逆行武器は順行物体や順行人間を傷つける

ことが分かります。

逆行人間のようすが銃を発射した直後のように見えたら、近づかない方が無難です。突然、その辺から逆行弾を吸い込むかもしれません。当たると怪我をします。

ところでしかし、逆行武器は順行物体を傷つけるばかりではありません。回転ドア倉庫の、順行ガラスの弾痕に着目すると、これは逆行セイターが発砲すると同時に弾丸を吐き出して直ります。

他の場面でも、弾痕が突然直る描写は何度も現われます。(あの映画には、登場した弾痕は必ず直るという法則があるようです。)

つまり、

1′. 逆行武器は順行物体や順行人間の傷を修復する(場合もある)

のです。

●逆に、順行弾で逆行物体や逆行人間を撃つと?

クライマックスのスタルスクの戦いでは、順行兵器と逆行兵器が飛び交い、兵士が後ろ向きや前向きに走り回り、ビルは爆発とともに立ち上がったかと思えば再び崩れ落ち、史上最高に奇妙な戦争が展開されます。

スタルスクの地底で、順行主人公は順行ボルコフと対決します。主人公のピンチを救うのは、地面に倒れていた逆行兵士(ニール)です。ボルコフに撃たれると同時に逆行ニールは立ち上がり、坑道の扉を開けて主人公とアイブスを招き入れます。(逆行ニールの立場では、扉を閉めて、ボルコフに撃たれたことになります。)

これは順行者から見て、

2. 順行武器は逆行人間の傷を消し、逆行物体を修復する

ことを意味します。

順行武器によって、逆行死体は撃たれて蘇り、傷は瞬時に癒え、逆行物体の破片は集まって修復されるわけです。ただし逆行者からすると、順行武器によって傷つけられることになります。

しかしこの原則にも例外があります。

オスロ空港の脱税倉庫で、逆行主人公は過去の自分と格闘します。順行主人公にとっては初めて目にする逆行人間です。事情を知っている逆行主人公と観客は、「やめろよ話せば分かる」と思いますが、過去の出来事は変えられないので、格闘をせざるを得ません。

この時、順行主人公は、錠前破りに使った道具で逆行主人公の腕をぐさっと刺します。するとその瞬間、逆行主人公にそれまで苦痛を与えていた傷が消え、逆行主人公の視点では痛みから解放されます。


図2:順行主人公は、錠前破りに使った道具で逆行主人公の腕をぐさっと刺します。

逆行人間にとって傷が消えるということは、これは順行者から見て、

2′. 順行武器は逆行人間を傷つけ、逆行物体を壊す(場合もある)

ということになります。

はて結局、順行側と逆行側が戦う際、武器は相手に効果があるのでしょうか、ないのでしょうか。自分の攻撃が敵に破壊をもたらすのか、それとも敵の死者を蘇らせてしまうのか、判断がつくのでしょうか。判断がつかないのに攻撃するのは得策でしょうか。

武器が、なぜある時には相手を傷つけ、別の時には癒すのか、その法則は明らかではありません。逆行現象の研究者バーバラの説明によると、逆行物体からは逆行放射線が出ているそうなので、それが順行物体に影響をおよぼすのかもしれません。

TENET世界の物理には、我々にはまだ理解できていない点があるようです。

●逆行は物理法則に反してないの?

カーチェイスの後、オスロの回転ドアを通って、主人公は逆行を経験します。観客は初めて逆行人間の視点で世界を見ることになります。

逆行主人公が順行世界を歩くと、水たまりは踏む前に跳ねます。逆行主人公は順行の空気を呼吸できず、マスクと酸素ボンベが必要です。順行の物質が燃える炎は、逆行物体から熱を奪うので、炎に触れると凍傷の恐れがあります。


図3:逆行主人公が順行世界を歩くと、水たまりは踏む前に跳ねる。

逆行人間にとって、順行世界の物理法則はどう見えるのでしょうか。また我々順行人間から見て、逆行人間や逆行物体は、物理法則に反していないのでしょうか。

実は、物理学の基礎法則のほとんどは、時間の進みを逆にしてもそのまま成り立ちます。ニュートンの運動の法則、アインシュタインの相対性理論、電磁気学に登場するマクスウェル方程式、量子力学のシュレディンガー方程式などはどれもそうです。

どういう意味かというと、通常の物理現象を動画に撮って、それを(逆行のように)逆に再生しても、その逆回しの現象はこれらの物理法則に反してないということです。

例えば、惑星は重力の法則にしたがって、太陽の周りをくるくる周回しています。

この時間の進みを逆にすると、あるいはこれを動画に撮って逆再生すると、惑星は太陽の周りを逆の方向にくるくる周回します。この運動はやはり重力の法則にしたがっています。時間の進みを逆にしても、ただ運動方向が変わるだけで、惑星を支配する重力の方程式は変わらないのです。

別の言い方をすると、ニュートンやアインシュタインやマクスウェルやシュレディンガーといった科学者たちを回転ドアに放り込んで逆行させ、順行世界を観察させると、しばらく考え込んだ末に、私たちの教科書に載っている方程式や法則と同じ式や法則を導くということです。

「動画を逆に再生しても同じ法則が成り立つ」ことを、物理学の用語で表現すると、「法則が時間反転に対して対称」だといいます。

ほとんどの物理法則が時間反転に対して対称なため、逆行人間は歩いたり物に触ったり順行自動車を運転したりできるというわけです。歩いたり物に触ったり自動車を運転したりといった行為はすべて、ある種の物理実験とみなすことができて、物理法則に厳密にしたがって実施されるためです。

しかし、物理法則の中には、時間反転すると成り立たないものもあります。そういう物理法則が働いている現象は、時間を反転すると、あるいは動画を逆再生すると、奇妙でありえない動きに見えます。

それが「エントロピー増大の法則」です。

●エントロピー増大の法則とは?

さて科学用語の中でわけが分からないこと一、二位を争う神秘的な単語「エントロピー」の説明です。わけが分からないのにというか、わけが分からないゆえというか、TENETを始めとするSF作品に頻繁に登場します。そういえば『魔法少女まどか☆マギカ』でも使われていましたね。わけがわからないよ。

温度の高い物体と低い物体をくっつけると、高い方から低い方に熱が伝わり、前者は冷えて後者は温まります。逆に低い方から高い方にひとりでに熱が流れることはありません。

食塩を水に入れると、溶けて混じり合います。食塩水からひとりでに食塩の結晶ができることはありません。(水を蒸発させたり、温度を変えるなど、外部から手を加えるならできます。)

グランドを転がるボールは、摩擦によって段々遅くなり、やがて静止します。ボールの運動エネルギーは地面や空気に与えられて、音や地面の振動や熱に変わります。グランドに静止しているボールが、周囲から音や振動や熱を集めて転がり出すことは、やはりありません。

これらの変化は(ひとりでには)逆に進みません。もしもこれらが逆に進むのが観察されたら、それは逆再生されている動画か、逆行物体か、あるいはあなたが逆行しています。

これら逆に進まない変化は、「不可逆(ふかぎゃく)変化」という舌を噛みそうな名で呼ばれます。

不可逆変化は、時間反転すると成り立たない特別な物理法則に支配されています。エントロピー増大の法則です。

100年以上前の科学者たちは、熱の研究をするうちに、高温物体と低温物体をくっつけて熱を伝わらせるとエントロピーという量が増えることを見つけました。

エントロピーとは、高温物体や低温物体や食塩水やボールや空気や地面が(熱や温度を持つように)持っている物理量です。

熱が伝わったり食塩が溶けたりボールに摩擦が働いたりといった、不可逆変化が起きるときには、必ずそのエントロピーが増えます。エントロピーが増えるとき、そこでは何らかの不可逆変化が起きています。

なので、「不可逆変化が起きた」といっても、「エントロピーが増えた」といっても、同じことです。

なので、「世の中では不可逆変化が起きる」といっても、「エントロピーは増大する」といっても、同じことです。これが「エントロピー増大の法則」です。

なんだか当たり前のことをいっているようですが、物理学の基本法則であり、宇宙をこういう姿にしている要因の一つです。

さて、順行している私たちから逆行物体や逆行人間を観察すると、故障が直ったり傷が癒えたり、ありとあらゆる不可逆変化を盛んに起こしています。つまり逆行物体や逆行人間のエントロピーは減少しています。

逆行はエントロピーを減少させる現象なのです。(ダジャレではありません。)

ちなみにこのあたりのことをニールがキャットに説明するセリフが脚本にあるのですが、上映時にはほとんどカットされています。


図4:物理学の修士号を持つニールがエントロピーについて説明する。

ところで、逆行セイターに逆行弾で撃たれた順行キャットを救うため、主人公はキャットを回転ドアに通します。瀕死のキャットは逆行することによって助かります。

これはしかし一体どう説明すればいいのでしょうか。エントロピー増大も減少もうまく当てはまりません。

繰り返しますが、TENET世界の物理を、我々はまだ完全には理解できていないようです。

小谷太郎
日本のサイエンスライター、大学教員。東京都生まれ。東京大学理学部物理学科卒。博士(理学)。理化学研究所、NASAゴダード宇宙飛行センター、東工大などの研究員を経て著述活動を開始。平塚市在住。
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