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「絶滅危惧種記者」小泉信一さんとの別れに寄せて

針谷周作(コトノハ)

朝日新聞編集委員・大衆文化担当の小泉信一さんが亡くなった。

小泉さんの群馬本を出版した版元として、記しておきたいと思う。

小泉さんとは8年ほど前に地元で出会い、その後、ちょくちょくいろいろな場所で酒を酌み交わした。酌み交わすといっても、量はさほど飲まず、1、2杯という感じだ。

小泉さんの電話はいつも突然だった。

前の日に連絡があれば、こちらも予定が立てられるのだが、たとえ前日に電話があっても、当日になって待ち合わせ場所や時間の変更は当たり前。まるで誰かに追われているスパイのようにも思えた。

その日は、川崎に行こうということで、蒲田で待ち合わせて京浜東北線で川崎駅に向かった。

「ここで飲むんだよ。いいでしょ」。

そこはJR川崎駅の改札階の階段脇のスペースだった。私を案内した小泉さんは得意げだった。

「あそこのキオスクでホモソーセージってのが売ってるんだよ。それをつまみながら飲むんだよ」。

ホモソーセージ、とつぶやいては一人で笑っていた小泉さん。私もそのホモソーセージと缶チューハイをキオスクで買い、階段脇のスペースに移動して乾杯となった。

「ここでね、駅から出ていく仕事帰りの人たちを眺めながら飲むのが最高なんだよ」。

仕事帰りの人でごった返す改札の手前で、ホモソーセージを頬張りながら、小泉さんは嬉しそうに話した。

それからもちょくちょく電話があり、いろいろな場所へ飲みに行き、また銭湯へも何度か一緒に行った。ひとつ記しておきたいのは、小泉さんの癖として、相手を試すようなところがあり、最初に自分ではあまりいいと思っていない場所に連れていき、私の反応を見て、その数ヶ月後に自分の本当のお気に入りの場所へ連れていかれるということが多々あった。最初の頃は、正直、何を考えているのかよくわからない人だなと思っていた。

そして選挙前になると必ず電話がかかってきた。

「今回どうだろうね」。

そんな言葉を投げかけ、私がどの党を応援するのかを探っているようだった。私は特定の政党に入れ込んでいるわけではないので、いつものらりくらりと返事をしていた。

また、不思議だったのは、電話が来る度、声と顔が一致せず、別の人の顔を思い浮かべていたことだった。

取引先の人に風貌が似ていたので、私は電話が来る度、いつもその人の顔を思い浮かべ、本人と想定する人とのギャップにしばし混乱した。電話が来ても、最初誰だかが判然としないのだ。

小泉さんが医師から余命宣告を受けた後、小泉さんから頻繁に電話がかかってくるようになった。

「昼頃、病院が終わるから、ランチでも食べようよ」。

余命宣告を受けたとはいえ、声は至って以前のように快活だった。とても余命宣告を受けた人とは、電話の声だけではわからない。そうして車で指定された病院の前で小泉さんに会ったら、以前より痩せており、頭髪も薄くなっていた。

「腰が痛くてさ」。

杖をついて歩く小泉さんになんとか車に乗ってもらい、小泉さん指定の池上の蕎麦屋へと向かった。高校野球がテレビで流れていた。小泉さんは夏なのにあったかいそばを注文した。

「最近は量が食べられなくなってね」。

到着したそばをすすりながら小泉さんは言った。

小泉さんに会うと、私が話すことはほとんどない。私が何か話しても、あまり興味がわかないようだった。小泉さんが一方的に話すのだ。

しかししばらく付き合ってわかったのは、小泉さんは人の話を聞いていないのではなく、原稿にできるネタを相手に気づかれないように、ちょっとした返事や言葉の濁りからこちらの気持ちを察知していたのだろうということだ。

蕎麦屋を出て、池上の池田屋で葛餅を買い、家まで送った。

その数日後、また小泉さんから電話がかかってきた。

「来週、群馬行こうよ」。

唐突な誘いだった。小泉さんは渋川にあるお気に入りの温泉に浸かりたいということだった。以前、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』という本の営業で前橋に行った時に連れていってもらった、丘の上にある日帰り温泉だ。

「毎日、今日が最後だと思ってるから、会いたい人に会っておかないとと思って」。

なんと返事をしたらいいのかわからなかった。

電話を切る前に、小泉さんがこんなことをぽつりと言った。

「…「絶滅危惧種記者」ってタイトルを思いついた時、もうだめかもって頭によぎったんだよなぁ…」。

またしても私はなんと返事をしていいのかわらかなかった。しかし小泉さんが望む群馬への旅は、小泉さんが元気なうちにという気持ちもあり、一緒に出かけることにした。

群馬では、うちから出版した小泉さんの著書を置いてくれている書店を訪ねたり、文化資料館を訪ねたりした。

群馬に到着した夜に、前橋のラーメン屋台に連れて行ってもらった。そこで私は新聞記者人生について取材しようとしたところ、小泉さんは「それは俺が自分で書くことだ」と言わんばかりに、こちらの質問をやんわりとかわした。(この時の様子はスマホでビデオ撮影をしたので、いつか親しかった人に見せようと思っている)。

翌日、そろそろ帰ろうという段になって、

「ちょっと米を買いたいんだよ」。

病状の割に、食べ物に妙に興味があるんだなと思った。

車で20分ほど走らせたところに、農作物の販売所があり、そこに皆で入った。

「群馬の米はおいしいんだよ。水がいいんだろうね」。

私もつられて5キロの米を買い、車に乗り込んだ。

最後の旅となった群馬からの帰り、私はスマホのカーナビを使っていた。東京に入る前になって、カーナビが高速を降りろと指示を出した。私はナビに従って、高速を降りた。

「え、どこ向かってるの?」。

小泉さんが不審がって聞いてきた。

「ナビの言う通りに走ってるんですけどね。あ、どうやら高速で工事があって、それを迂回してるみたいですね」。

そう言うと。

「カーナビは使ったらダメだよ。部分だけしか見えなくて、全体像が見えなくなるから」。

これが私の心になんだか深く刻まれた、最後の小泉さんの言葉だった。

そして最後に会ったのは、小泉さんが通っている病院の近くのカレー屋、キッチンすみっこに行った時。

小泉さんは、カツカレーが食べたいけど、量が食べられないので半分にして出してほしいと注文をした。

一緒に行った妻と半分ずつ分けてもらったが、結局、小泉さんは一口しか食べられなかった。

「お母ちゃん、残しちゃって悪いね」。

体調に見合わぬ元気な声で、小泉さんは店の人に声をかけた。

最後の電話となったのは、横浜総局に行くのに車で送ってくれないかという連絡だった。しかし、その後、小泉さんが確認したところ、総局長がその日いないことがわかり、結局その約束はなくなった。

亡くなった日、私は偶然、妻と小泉さんの話をしていた。

しばらく連絡がなく、心配になってきたので、週明けに柿を手土産として自宅の玄関の前に置いて、一緒に手紙を忍ばせておこうと計画をしていた。そうすれば何か連絡が来るのではないかと。

しかしその計画は実行されることはなく、月曜日に、小泉さんの奥さんと親しい友人から、小泉さんが亡くなったと連絡があった。

小泉さんは、フーテンの寅さんに憧れて、心底、寅さんになりたかったのだと思う。小泉さんと一緒に訪ねた数々の店で、小泉さんの店の人とのやりとりが、それを裏付けていた。

病状が悪化しても、活動を止めることはなく、弱々しい声を聞いたことがなかった。いつもハリのある声で、私たちに声をかけてくれた。

小泉さんの常に前向きな姿勢を、私たちは受け継いでいきたいと思う。

群馬のことが好きな方に限らず、いま新聞記者をやっている方はもちろん、地域を盛り上げる原稿を書いているライターなどにも、ぜひ読んでもらいたい1冊です。

書く仕事=新聞記者とは何なのかについて、思考をめぐらせるいいきっかけになる1冊だと思うので、ぜひご一読ください。

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