【連載】まだ『音楽』と呼ばれる前夜⑧
針谷周作(コトノハ/コンピュター・スープ)
soup-diskからデビューアルバム「Computer Soup」がリリースされてからは、ほかのさまざまなレーベルからも声をかけられコンピレーションアルバムに参加したり、これまでやったことのなかった場所でライブができるようになった。音楽が広まったことで、さまざまなクリエイターたちの人脈も増えた。そこで、この人脈を活用して、カトマンズの安ホテルでその兆しを見せた音楽とアートの雑誌『Salon』を立ち上げることに決めた。
1990年後半、代々木にあった会社で働いていたデザイナーSくんとは、仕事の合間に音楽の話でいつも盛り上がっていた。そのSくんに雑誌『Salon』の話をすると、やりたいです!と手をあげてくれた。
それからしばらく経ったある日、Sくんが会社を辞めるというので、ついに『Salon』をつくる時が来たかと僕は腹をくくった。そして、よく仕事を一緒にしていたカメラマンの後藤さくらさんに「雑誌を立ち上げたい。そのためには編集する場所が必要だ」となにかのタイミングで話すと、知り合いのつてをたどって新宿5丁目にあった広告制作会社を紹介してもらった。そこの社長と取締役に、雑誌をつくりたいという熱い思いを話すと、数日後電話がかかってきた。
「結論から言うと、うちの空いたスペースを使ってもらって大丈夫です。ただし、事務所の冷蔵庫のビールが切れないように補充してください」とのことだった。
それからSくんと一緒に簡易的な椅子とテーブルを持ち込み仕事場スペースを整えてから、肝心な雑誌の企画について考えはじめた。どんな人が登場し、なにを紹介するのか。それまではすでに企画ありきの頼まれ仕事しかしてこなかった私にとって、企画を立てるという難しい作業に直面し悶絶していた。「音楽とアートの雑誌?」「何をどういうテーマで集めて紹介するの?」「それは売れるの?」などなど、答えのない問題について悩む日々となり、夜な夜なSくんと歌舞伎町へ行って飲んだりしながら不毛なやりとりを続け、ついに何もせず半年が経過してしまった。Sくんはある日「もういい加減にしてください!」と怒鳴ってきた。僕は「わかった!数日中に企画を決めるからちょっと待って!」と言って、事務所近くのやよい軒にSくんを連れていき、彼の大好きな納豆カレーをごちそうしてなんとか彼の機嫌をとった。
ある日、カメラマンの後藤さんに、ふとしたきっかけで「ダムタイプに取材したいんだけどなあ」とぼやくと、なんと彼女の学生時代の同級生が直木賞作家の故・山本兼一さんと結婚して京都におり、ダムタイプのリーダーだった故・古橋悌二さんの兄と親しい間柄だという話をしてくれた。早速話をつけてもらって後藤さんと一緒に車で京都へ行き、ずうずうしくも山本さんの家に泊まらせてもらった。翌日はダムタイプの事務所でパーティがある。そこに行けば、ダムタイプのメンバーに取材ができるよう話をつけてくれる、ということだった。
その日は、京都の街を、山本さんの持っているポルシェで案内をしてくれた。
この時、山本さんはまだ直木賞を受賞する前で、ペンネームで時代物小説を書きまくっていた頃だった。その日の夜、山本兼一さんから、一介のライターが、どうしたら京都にこんなおしゃれな一軒家を持つことができ、ポルシェまで所有できるようになったのかについて、根掘り葉掘り聞いた。
翌日の夕方、ダムタイプの事務所に行くと、パーティが開催されており、なんと音響担当の池田亮司さんが仲間たちと和やかに談笑していた。池田さんの音楽は、冷徹で機械的だったから、音楽と実際に会った時の印象のギャップにしばし驚いた。恐る恐る近づいていってインタビューさせてもらえますか、と言うと、「いわゆる取材は好きではないけど、インター・ヴューは好きですよ」と快く取材に応じてくれた。
東京に帰ってきて、ダムタイプが載るのなら、それまで気になっていた人たちにも声をかけてみよう、ということで、現代美術家の小沢剛さんにも声をかけたら、快諾していただいた。さらに当時注目され出した小山登美男さんにも原稿を依頼しOKが取れ、東京都現代美術館のキュレーターをしていた南雄介さんも快諾、さらに大学時代に一度飲んだこともあったキュレーターの故・東谷隆司さんからもOKをもらった。東谷さんからは、京都での取材前に、ダムタイプについていろいろと教えてもらっていたのだった。
こんな具合に、インディペンデント雑誌『Salon』の紙面はどんどんと埋まっていった。
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リンク>「まだ「音楽」と呼ばれる前夜③」
リンク>「まだ『音楽』と呼ばれる前夜⑤」
リンク>「まだ『音楽』と呼ばれる前夜⑥」
リンク>「まだ『音楽』と呼ばれる前夜⑦」
