【連載】まだ「音楽」と呼ばれる前夜⑥
コトノハ
しばらくして私は大学を卒業し、アルバイトをしていた代々木の編集会社でそのまま社員となり、毎日終電まで働き、パリペキンレコードにはしばらく行けずにいた。日々年上のライターに連絡をとり、原稿を書くための大量の資料をFAXしたり、階上にあったデザイン会社で写真のトレースのため、トレスコという機械と奮闘したり、レイアウト紙にフォントと級数を指定したりと、猛烈に仕事をしていた。まだ、Macが出版業界に進出する前のことで、編集者はワープロを使って原稿を作っていた。
そうして1年ほど働いているうちに、ぼくらのアルバムが出るという知らせをパリペキンレコードに出入りしていたComputer Soupのメンバーから知り、嬉しくて舞い上がった。そして、その頃、ちょうど社内の上の人たちの間でちょっとした経営上のもめごとがおこり、私を紹介してくれた当時スター編集者でありライターだった人が社を離れることになった。ある日、社長から「今後もこの会社に残って仕事をするか」と問われ、アルバムの発売のこともあり私は即答で「やめます」と答えた。当時、CDを出してレコード店に流通させることはとても特別なことだった。
大学3年の頃からバイトをさせてもらっていた会社だった。とても親身になって仕事を教えてくれる人たちがいて、いまでもたまにその人たちのことを思い出す。長時間働いて、でもまったく疲れなかった。若さもあったし、早く仕事を覚えフリーで活動したいと思っていた。当時、その会社に出入りしていたフリーライターだった小沢博さんは、創刊したばかりの雑誌『Pen』の編集長に抜擢された。当時はまだまだ雑誌が輝いていた時代だった。だから私もフリーになったら、そういう風に活躍したい、と思っていた。音楽をやりながら、フリーのライターとしても活動していろいろできるだろう、と思って会社をやめた。だけれども、もちろん、会社をやめてから、仕事の電話は元いた会社からしかかかって来ず、来たとしてもデータの確認が面倒なページしか担当させてもらえなかった。バイトで2年、契約社員になって1年そこそこ、当たり前のことだ。
そうこうしているうちに、デザインの現場にアップルコンピュータのMacが続々と導入され、私もMacintoshのパフォーマという機種を買って、当時一世風靡したNetScapeNavigaterというブラウザを使って、インターネットの世界に触れた。日本人がやっているホームページはまだまだ少なく、海外のサイトばかりだったけれど、一部ではアメリカのハキムベイ(ピーター・ランボーン・ウィルソン)による『T.A.Z』の思想が広まり、CD-ROMなど本に変わる新しいメディアの登場もあいまって、その後世界的なITバブルにつながっていった時代だった。日本では悪名高い匿名掲示板「2ちゃんねる」や、ホリエモンの会社ライブドアなども生まれていった頃だ。
海の向こうのホームページを訪れては、すごいすごいと叫んでいた。いろいろな可能性が感じられた。以前から聴いていた、モーリー・ロバートソンのラジオ番組「Across The View」や、当時アメリカのカルチャーを一早く紹介していた雑誌『STUDIO VOICE』にあったキーワードを検索しては、感動していた。ちょうど中学校時代にNECのPC-98、88シリーズのパソコンに触れた時のようにー。
何か面白いことがはじまるかもしれない。そんなムードに満ち溢れた時代だった。雑誌『STUDIO VOICE』では、ハイパーメディアクリエイターの高城剛さんが連載をしていた頃だった。高城剛さんは、最近までメルマガを購読していたくらい好きな人物だ。当時テレビで放送された「バナナチップスラブ」は、ニューヨークのドラァグクイーンカルチャーなどを取り込んだ、とても先進的なものだった。
しかし、それからしばらくの間、CDの話しの進展はなく、私はネパールへ一人旅することにした。当時、イタリアの映画監督ベルトルッチの映画『リトル・ブッダ』を観て、 映画の中に登場したブッダの墓=ストゥーパを訪ねてみたくなったのだった。音楽は坂本龍一が担当していた。カトマンズの離れた場所で、死者が川の淵で焼かれ、流されるという光景を目にした。
タイのバンコクから小型のセスナ機に乗り換え、ネパールの首都、カトマンズに到着し空港から出ると、200人ほどのネパール人に囲まれた。すべてホテルの勧誘だった。それから珍道中がはじまって、出会ったネパール人のしたたかさに到着して1日で帰りたくなってしまったが、 出国の飛行機は約20日後。騙されたり、日本ではありえないしつこい勧誘にあったりで、それまで経験したことのないさまざまな困難に遭遇して、もう二度とネパールには来ないとその時は誓ったが、いまから思い返せば 、世間(世界?)勉強のためのいい経験となった。
一番記憶に残っているのは、山岳地帯のポカラからの帰り道、一人で登山をしている人が毎日のように襲撃に遭い、殺害されているというニュースを耳にしながら、一緒に登った某ケーブルテレビに就職したKという友人が「俺は、生存率が低いと言われている上の方まで行き、帰りはセスナで帰る」と言い出し、私は、そんな墜落する確率が高いセスナには乗りたくないと帰り道を別れ、お互い一人で帰路するという段階で、別れた地点であるタトパニという温泉地から一人でポカラを目指していたところ、運よくドイツ人夫妻と合流し、お互い、片言の英語で意気投合し下山していた。途中、川をまたぐ吊り橋を渡ることになり、3人で吊り橋を渡っていたが、向こうからヤギの大群が押し寄せ、細い吊り橋を占領して、私はドイツ人妻をかばおうと差し伸べた手が、ちょうどその妻のバストにあたってしまい、妻は押し寄せたヤギに圧倒され、結果的に妻の胸に私の手がぎゅうぎゅうと触れてしまった。その結果、妻は号泣し、それを後ろから見ていた夫は泣きじゃくる妻をなぐさめ、ヤギの集団がひけた後、なんだか気まずい空気が漂って、結果的に私とそのドイツ人夫妻は別れ別れに下山することになった。
その後、後ろから飛脚のように走ってきた日本人バックパッカーと合流し、なんとか山賊の罠からは逃れることができたが、その時の苦い経験は、いまでも心の奥底にシミのように残っている。
ある日、あまりにも高額なツアーをしつこく誘ってくるホテルから抜け出し、カトマンズから少し離れた一泊600円ほどの街のホテルに宿泊した。翌朝、狭い部屋にある窓から差し込む光がとても綺麗で、持っていった写るんです(使い捨てカメラ)で写真を撮った。日本に帰ってから現像してみると、まるで後光が差したような神秘的な仕上がりだったので、会社に勤めている頃から作りたいと思っていた雑誌「salon」のロゴを家にあるMacでデザインしポストカードにして、決して多くはない知り合いに郵送した。それが、その後いろいろな人たちに協力してもらって自費出版した音楽とアートの雑誌『salon』のはじまりだった。それは、大手雑誌が報じることのない、クリエイティブに関わる人なら共感できる事象をインタビュー原稿とともに紹介するものだった。
日本に帰ってから、また私はバンドのメンバーと一緒に何度かスタジオや路上で演奏しているうち、いつの間にかCDの発売が決まっていた。虹釜太郎さんから紹介され、メンバーと一緒に渋谷のHEADZに行って、はじめて原雅明さんと会い、僕らのCDを出したいという話を聞いた。原さんは、生意気な僕らの話を一生懸命に聞いてくれて、 その後、きちんとCDは発売され、当時、毎週のように通い詰めていた渋谷のタワーレコードの5F(だったか?)に展開されていたニューエージコーナーの視聴機の中に、僕らのCDがあったのを確認して嬉しくなり、それから何度もここに足を運んだ。そこにいたのが、いまもCOMPUMAとして音楽活動をしている松永さんだった。たまたま訪ねた際、松永さんを見かけると挨拶をすると、いつも穏やかに売れ行きや、最近のおすすめ音楽を教えてくれた。
原さんは、この頃からもそうだし、現在もずっと音楽を主戦場として仕事をしている。この頃から10数年経ったある日、テレビ番組の「題名のない音楽会」に原さんが出ているのを見て驚いた。ここまで一途に、しかも音楽業界の不況が叫ばれている中でも音楽をつきつめ、執筆活動やDJ活動をしている人を他に知らない。その上の世代では、先日亡くなってしまったロッキンオンの渋谷陽一氏などがいるだろうか。ずば抜けた先見性と行動力、社会性を持った人なのだと思う。
またこのアルバムのジャケットデザインを担当してくれたのが、元々、祖父江慎さん率いるコズフィッシュに在籍していたことのある佐々木暁さんだった。銀と黒のツートンカラーが先鋭さと重厚さを醸すデザインに、メンバーも気に入った。時を経て佐々木さんには、コトノハの名刺もデザインしてもらっている。
このCDが発売され、僕はバカなことに「音楽で食べていこう」と決意してしまった。今から思えば、こんなニッチなジャンルの音楽で、どうやって食べていけるというのか、あきれてしまうが、今から思えば、当時、HEADZの佐々木敦さんや原さん、虹釜太郎さんらがライターとしてさまざまな雑誌で展開していた音楽の啓蒙的なテクストを夢中になって読んでいた自分としては、そう決意するのも自然なことだったかもしれない。
(つづく)
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リンク>「まだ「音楽」と呼ばれる前夜③」
リンク>「まだ『音楽と呼ばれる前夜④」
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