【連載】まだ「音楽」と呼ばれる前夜③
コトノハ
TS10にはシーケンサー(音を自動で演奏してくれる機能)もついていたが、私はMTRというメタルテープを使って多重録音する機材を使っていた。テープの読み取り面を4つに分割し、最初はリズムを録音して、次にピアノを入れて、その次にボーカルを重ね録りして楽曲をつくる。録音のボタンを押せば録音できるので、デジタルシーケンサーより簡単でわかりやすい。
ここでデジタルシーケンサーが使いこなせていたら、多分、音楽の雰囲気もそうだし、一緒に音楽をやる仲間も、もしかしたら人生も変わっていたかもしれないと思う。シンセサイザーを買ってからも、自分のキーボードの腕を磨こうと、大学に行った時はいつも音楽自習室で何時間もひとりでピアノを練習していたのだった。もしシーケンサーが使いこなせたら、リアルタイムで演奏する腕を磨く悪戦苦闘の時間を長く過ごすことなく 、アイデア次第で楽曲づくりがどんどん広がっていったのかもしれないと思う。しかし、小学校の頃、思うように鍵盤が弾けなかった悔しさを解消するために、とにかく手と指を自由に思うように動かして曲を演奏することに拘っていたのだった。
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ピアノは高校に入った頃からはじめた。家にはアップライトピアノがあったのが幸運だった。まずはツェルニーやハノンで指を慣らし、右指と左指が連動して動いてしまう初期の状態を脱し分離独立して動かすことができるようになると、ベートーヴェンやショパンへと入り、その後、憧れだったバッハの平均律、ドビュッシーの月の光などへ進めていった。時間があるときは一日7、8時間はピアノに向かう日々だった。
それから何かの音楽雑誌に載っていた音楽教室の広告を見て、目白にある音楽教室で作曲を習うことにした。毎週土曜日の昼頃から一時間、平均律の授業。4声のコードについての勉強。毎回宿題が出て、楽譜に4つの音、つまり左手と右手それぞれ2つづつの合計4つの指で和音を組んで、C→F→G→Cといったコードの流れに従って音符を楽譜に書き込んでいく。しかし、ジャズのモードやスケールなどの知識をかじっていたせいもあり、これが実につまらない作業で、通い始めて数ヶ月後の授業で先生に「こんなのができたからといって、いい音楽ができるわけじゃないですよね」と、とんでもなく青い言葉を言い放ち辞めてしまったのだった。若さとは、思慮が浅く怖いもの知らずなのだ。
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ある時、最年少のバンドメンバーがモロッコへ旅行に行き、ジュラバという民族衣装をメンバー全員に買ってきてくれて、 皆、それを着て路上で民族楽器を演奏するようになった。特に、渋谷の西武デパートの間の道や、公園通りで演奏していたことが濃い記憶となって残っている。ジュラバは茶色いフード付きマントのような代物で、頭をすっぽりと覆い顔も見えない。スターウォーズ『ジェダイの復讐』に登場するルーク・スカイウォーカーが映画の冒頭、虚無僧のように羽織るマントのようだった。日本の街中で着て歩けば、怪しさは抜群だ。平日の夜、会社に勤めていたメンバーの帰宅を待って車でピックアップし、ジュラバに着替え、ほぼ毎週1、2回、渋谷の街で民族楽器を演奏していた。
路上演奏で印象に残っている出来事がある。ある夜、西武の間の道で演奏しようと準備をしていた際、すでに演奏している2人組がいたので、彼らが演奏を終えるのを待っていると、そのうちのひとりがこちらに向かってきて、「お前ら、おれはヤクザにも警察にも筋通してここで演奏してるんだ!」とものすごい剣幕で威嚇されたことがあった。後で知ったが、彼らはのちにテレビにも出演することになる某バンドの人たちだった。
早朝の丸の内でも演奏したことがあった。通勤するサラリーマンたちの目の前で演奏した。端から見て、明らかに異質な感じがしたのだと思う。
「あやしい宗教にかぶれた5人組が奇妙な音楽をやっている」そんな印象を持たれたかもしれない。
演奏する際、トランペットのケースを前に置いておくと、通りがかった人の数人がお金を入れてくれるようになった。そのうち、みんないい気になって「今日は3000円だ、いい方だね」などと話すようになった。最初は度胸が必要だったが、渋谷の街で演奏をするうち、「皆、早く目を覚ませ!」といった教祖のような気分がふつふつと芽生え、とても気持ちがよかった。
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